Movie Review-永遠の0 評論

『永遠の0』の主人公の宮部久蔵は命を惜しむという、あの時代では珍しい人間だったことはきっちりと描いていているので安易な戦争賛美にはなっていない。只怖いのが、観ている人の全てが主人公に共感するということは戦時中誰もが主人公のように反戦思想の持ち主だったように勘違いしてしまうことだと思う。誤解を恐れずに言えば宮部久蔵は当時の共産党員やはだしのゲンの作者のようなラジカルな思想の持ち主だったといえる。主人公はあの時代ではあくまでも異端だったのだ。原作者は右翼っぽい人みたいだが、映画ではそこを巧く抑えている。戦争賛美では無いのだが、今の時代の人が主人公のような考えで戦争を追認するのは危険であるとは思う。反日、反日と声高に叫んでいる人とは相容れない思想を持っていたのが宮部久蔵なのだが、反日を叫んでいる人は単純なので真逆の考え方をしている宮部久蔵が最後には特攻をしているから自分と同種の人間と誤解してしまう危うさはあると思う。
宮部が特攻したのは「理」よりも「情」を選んだ結果であり、結局は同調圧力に負けたのだと思う。ほんらいならば判断を誤った宮部だがそこをヒロイックに描いているところはこの作品が右傾的なフレーバーを持った所以のように思う。祖国を愛するということは右も左も関わらず誰もが持ってもよい感情だ。右翼だから国を愛して左翼だから国を嫌うということはない。映画の中では“生きて国を再建するために必要な人が死ぬ”というフレーズが多用されるのだが、宮部もまたその事実に苦しむのだけれど、その点で宮崎駿の『風立ちぬ』とは結論がまったく逆の物語だ。『永遠の0』は死を美化しているのに対して『風立ちぬ』は生きることに徹底的に執着した作品だ。『永遠の0』と『風立ちぬ』は同じ零戦を扱った作品だが、対照的な思想のもとに製作されたのである。宮崎監督が本作を嫌った理由が解ったような気がする。私個人の感想では『永遠の0』のように自分が家族の願いを振り切ってまで命を捨てた宮部には同情する。映画を観れば解るが止まれぬ事情があった。そこに観客は涙するのだが。一方で宮崎監督はそんなことを赦すはずもない。監督の映画は未来のある子供たちのために”未来は明るい”と満身創痍になっても送り続ける生へのポジティブなエールだからだ。だから『永遠の0』は絶対に赦すことは出来ないと思う。宮部は国の礎に成ったのではなく、彼もまた戦争の犠牲者だったのだ。死を美化するのか死は虚無への回帰なのかの見解の違いで保守とリベラルの相違が生まれるように思う。『永遠の0』は結果的には惜しむ生よりも散華することを優先して描いた作品であり、死を美化することにより死の恐怖を和らげるモルヒネの効果を期待した作品である。良い映画ではあるが、くれぐれもハマらないように。

★★★★

 

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