エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス 評論

実数に無限をかけると全て無限になるように、宇宙が無限であれば、全ての可能性が存在する。それは、十指がソーセージという人類が存在する可能性をも担保する。 多次元宇宙からの人格がシャーマンの如く主人公に憑依するというアイディアに新しさは無いが、現代のSNS時代に仮託してインターネットに散らばるオルターエゴが主人公の心の中で入れ替わる解釈であれば、時代を象徴しているようで着想としては面白い。 近年では、鬼退治をモチーフにした漫画にもあるように、主人公が特殊能力を身に付ける際に、本来あった封じ込められた能力が開放されるとか、努力して習得するスキルに対してのプロセスが描かれていない。 これは古きを辿れば神話の時代から神の寵愛を得た半神半人が活躍する物語が多く、修行によって能力を身に付けた話型は時代が下ってきてから生まれた思想だ。東洋思想では道教の仙人とかが好例である。 努力をすればその対価が得られるというのは資本主義的発想であり、プロテスタント的である。一時隆盛したビルドゥングスロマンは大きな時代の中では異端なのである。 文明発生から中世に至るまで、努力は苦役であった。 キリスト教では、天国に行ける者は善人であろうと悪人であろうと最初から決められているのであって、徳を積めば天国へ行けるという考えは近年になってからである。清教徒革命と資本主義の関係についての考察は様々な書籍で言及されているので言を俟たない。 はなしを戻せば、マルチバースからの人格憑依は人類の歴史と密接にリンクしており原始的な人類の情緒に訴えかけるものだ。 只、マルチーバースにジャンプするために奇矯な行動を取る程に成功しやすくなるという設定がこの映画をかなりコメディ指向に傾いてしまっている。興醒めするか笑ってくれるのかは観る人次第だろう。 この物語の肝は戦いよりも”話し合い”で解決という話に収斂されていて映画のクライマックスでもあるので言及は避けるが、好戦的な態度よりも対話という、”新しい戦前”の日本には冷水を浴びせされるような内容である。 学校給食を無償化せず、子ども食堂は増える一方で、ジャンボジェット機並みのスピードで飛ぶ中古のトマホークを言い値で買って北京に向けたらマッハ5の極超音速ミサイルを配備する中国にどう再反撃されるのか、沿岸に50基の原発が設置されている日本がどうなるのか火を見るより明らかなのだけれど、その中国関連から対話のメッセージを発せられるとは感慨深い。

 

★★★★☆

 

2023年3月3日(金)TOHOシネマズ日比谷 他全国ロードショー

 

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