ポピュリズムと自己責任

本来、自己責任論は民主国家成立の要因と相性が良くない。
社会福祉・富の分配などは社会の不公平を是正する意図のものであるが、自己責任論者は、自由競争は公正なものであり、瑕疵は全くないと断言する。
自己責任論者は市場原理こそが絶対の正義であると確信している。
市場原理での自由競争の中で勝ち残った者が「正義」であり敗者は「悪」なのだ。
分かりやすい倫理観だと思う。
日本社会は市場原理主義を信奉する人たちによって、無駄は悪であり効率こそが善であると主張する。
その市場原理をマーケットに持ち込み効率化を国民一丸となって邁進してきたが、効率化によって得たのはニーズの一元化という生産者側のモーメントと多様化する消費者のニーズの衝突である。
企業では効率化を推し進める上で、ロングテールという商売の動きがあるものの究極には一商品だけに絞って利益を上げていきたいと考えている。
資本主義社会における究極の企業とはそういうものだ。選択と集中こそが業績を改善する有効な手段だ。
こうやってマーケットに敏感な企業はタフな生存競争に勝ち抜いていく。
国民もまたこういった市場原理主義を骨髄まで内面化している。
競争は正しく、落伍者は悪であると。
そのようなことから自己責任論者は伸長していく。
現代の自己責任論は新保守主義(neo coservatism)に通じていくのだが、この自己責任論と市場原理主義は切り離せない関係にある。
効率化を突き詰めると要は優勝劣敗の世界である。
強きものは生き残り、弱きものは排除される。
過日、相模大野市で起きた悲惨なテロも根底には、今、日本人が取り憑かれている「効率化」という呪詛が込められている。
今の日本人にはただちに有用にならないものは切って捨てられる。
「悪」のレッテルを貼ることに微塵のためらいも無い。
「効率化」という言葉は無機的で人間の生身の感覚が介在していない。
効率的であるならば死んでもいい、または、誰が不幸でも構わない。
それで良いわけが無い。
できれば、「便利」でいいね、くらいに留めたい。
便利は人を楽にする。人を愉しくするものだ。人間の身体の延長上にあるものだ。
効率化は非人間的だ。タコのように自分の触手を食う行為と同等だ。

「効率化」の名のもとに人類は人類を葬り去る活動に勤しんでいる。

究極の効率化とは“あなた”が居なくなることである。

自己責任論とは自分にかける呪いなのだ。

 

2016年8月30日

 

 

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