フリーライダーと拝金主義
フリーライダーとはおカネを払わずコンテンツやサービスを享受する人のこと、というのが大まかな定義だろうか。
昔は長距離電話をタダがけするようなハッキング技術が搾取し続ける企業への挑戦としてアンダーグラウンドな支持を集めていたが、それは義賊的な行為であって、現代のフリーライダーの問題とは位相が違うように思う。
フリーライダーには思想が無い。
搾取している企業・低コストでどうにか利益を確保している企業にお構いなく“カネを払わずに済む方法”だけを追求している。
そこには義憤もへったくれも無いのである。
あるのは、“カネを払いたくない”
それだけである。
フリーライダーを生む温床となっているのが拝金主義だ。
市場経済が末期を迎えて需要と供給が一致する時に供給者と受給者が両方得をするような考え方が蔓延しているからだ。
現実の商取引で売る者と買う者の関係は非対称な関係だ。
必ずしも両方が満額の満足を得る訳ではない。
それはカネの問題ではなく、サービスの対価には「相手への感謝」が含まれているからである。「売ってくれてありがとう」「買ってくれてありがとう」両者からの感謝があってこそ満足のいく取引が成立する。
だが、フリーライダーにはそのような感傷はまったくない。カネを払えば全てが解決すると思っているから、“問題にならなければカネを払わなくていい”という境地に達するのである。
フリーライダーは全ての問題はカネで解決するという考えが骨肉化しているので、カネは1円でも惜しむ。払わないで済むのであればビタ一文も払わない。これは市場原理主義の末期ともいえる状況で、すべての商取引がカネの交換で終始していない贈与経済では起こらない問題だと思う。
フリーライダーとは市場経済における消費者の末期の様態であるように、安い賃金で際限なく使役するブラック企業とはコインの裏表である(フリーライダーが起業したらその会社はほぼ間違いなくブラック企業になる)。
グローバル企業もまた、言葉を選ばなければ安い人件費を求めて最貧国を探し回る貧困ビジネスであって、結局、人間の感情を排した商取引が拝金主義を増長させているのである。
観念的な話なるが、人間は幻想を見る事を続けられないと現実に耐えられない。
商取引にも物語が必要だし、国にも物語が必要だ(日本にとって古事記がそうである一方で最近の日本人は押し付けられた憲法と日本国再生の物語は気に入らないようであるが)。ブラック企業がやたら起業の物語に拘るのは、現実を直視させないのとその理念に着いてくる人間をふるいにかけるためだ。
貧乏であっても夢を見られたから耐えられた。
よく求人広告で“大企業で働ける!”とか、きれいなオフィスで分煙あり、カフェも近くでアメニティ抜群という謳い文句は福利厚生というよりは一種の物語として作用しているように思う。
話を戻して、現代の日本では経済力が弱まり“カネが全て”みたいなリアルで生々しい話がしたくてもしにくくなった(もうお金が無いのだから)。
だから、フリーライダーの問題は日本の実情と対比するように顕在化してきている。これからの日本はいやでも“物語”にしがみついていかなくてはならなくなるだろう。
2016年9月4日