2016年 雑感MEDLEY

日本人の知的レベルが下がってきていると言われるのは、貧困であっても取り敢えず生きていけるような状況だからだ。

コンビニ弁当を食べてテレビがあってスマホがあればとりあえずの欠乏感は誤魔化せる。
欲望を先鋭化させる必要が無くなってきた。
つまり、日本人の知的レベルが下がったのは良く言えばガツガツして生きる必要がなくなってきたからだ。頭を使わなくてもそこそこ生きて行ける時代なのだから腑抜けた人間にはなりやすい。

その一方で、仕事はどんどん人工知能に奪われる。
語学というスキルも優れた翻訳アプリに取って代わられて、昔は裸眼で6km先の獲物を視認する事ができれば十分なアドバンテージになったが、今では双眼鏡があれば事足りる。
人の能力は代替の効くものに取って代わられる。

ギリシャ時代は奴隷が市民の代わりに働く問題があったが制度的には未来社会であった。
これからの人類はギリシャ時代のアテネ市民がそうだったように、労働を人工知能に任せて自分は毎日パブで飲み明かすか思索に耽る日々になるのか本人次第になる。文字通り“酔生夢死”のような人生を送るようになるのかもしれない。
政府は企業がロボットの導入で浮いた利益をそれで失業した人に還元すれば帳尻が合う。
ベーシックインカム導入の強力な根拠になると思うがどうだろうか。

 

しかし、平和の状態が続くと人は戦争にロマンを求めるようになる。
オープンマインドで居るような人をある人は“お花畑のような人”と言って嘲笑するのだが、私から見れば戦争のリスクを過小評価し“強い国日本”を夢想する人の方がお花畑な思考だと思う。

平和とは戦争では無い状態であって、全く戦争の危険性が考えられなくなったユートピアの状態を指すものでは無い。
戦争の危険を孕みながらも必死に戦争を回避しようと努力するそのような累卵の危うきのような状態を“平和”というのである。
日本の核保武装は、福島の原発事故の二の舞で、想定外のリスクを算定していない。日本が核武装してその結果、核戦争が起きた際に、「すみません、想定外のケースがおきました」とでも言うつもりなのだろうか?
これは、自分が死んでしまえば世界は無くなったものと同じという刹那的な思考の果てに行き着いたものであって、人類が絶滅する危機に直面した時、取り返しがつかない。核抑止力というのはたまたま現時点で核戦争が起きていないという状況を説明しているだけで、これからも核戦争が起きないという未来を保証しているものでは無い。チキンレースの賭け金が、壊滅した東京・北京・ソウル・平壌というのはリスクが大きすぎる。キューバ危機では賢明なフルシチョフがチキンレースから下りたが、指導者の知性をあてにして最終戦争のリスク回避策を設計するのは楽天的すぎる。核抑止力論者の陥穽は他国を信じていないのに、極限状態で敵国の指導者は最適解を出すと信じている。核抑止力論者はその矛盾に気がついていない。相手を信じないというスタンスを取りながら一方で相手の知性を信じている。お互いナイフは持ち歩くけれど、喧嘩になってもまさか刺すことはないだろうという甘い認識が核抑止力論の本質である。核抑止力論者はその思考がすっぽりと抜けている。
日本が、戦争が出来る“普通の国”になれば他国からテロの対象になりうる。
その分安全保障費用は跳ね上がる。
アメリカの核の傘に守られていたので、安全保障はタダ乗りとトランプからは批判されているのだが、核の傘から出る事になれば一層周辺国との緊張を避けるために外交努力に奮励しなければならない。
日本国憲法というのは本来の日本にマッチしたポリシーだった。
日本には資源が無い。減っていく日本国の成員の母数からいって戦争が出来る充分な体力がある訳でも無い。
日本は周辺国と交流を盛んにして戦争のリスクを逓減していくのがベストな生存戦略なのだ。
日本国憲法は日本が国際社会から信用を得るための重要な通行手形だったのだ。

 

グローバル化の少ない利点の一つに、世界が経済で結びついていると安易に戦争を起こせない安全弁として機能している面がある。
昔は植民地政策のために戦争の原因となったのだが、ある程度世界の文明が発展すると国際社会の目が光っている以上安易に侵略することが出来なくなっている。
グローバル化が戦争を抑止する一因になっている点は評価したい。

 

世界はより良き未来になるように順次改善の努力を積み上げている。一時的な利益を得ようと不正を働くものは漸次世界の舞台から退場していく。
そうやって世界は少しずつだが良くなっていく。

 

明日は檜になろうとしたあすなろのように、人は成長していくものと信じて筆を擱きたい。


 

 

2016年12月31日

 

 

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