労働の非対称性
労働というのは等価交換ではない。
会社の利益>労働賃金
によって初めて成り立つ。
つまり仕事をしてお金を稼ぐ事はどこかで労働者が損をして企業がそれ以上の利益を上げることだ。
そうでなければ企業は労働者を雇っている意味が無い。
企業が儲けて労働者が少し損をする。これが鉄則である。
一方で、日本ではここ数十年”成果主義”というスローガンのもと利益に貢献した労働者には相応の褒賞で報いると発破を掛けてきた。だが、最近それがトーンダウンしてきてる。その証左に、野心を持ったビジネスパーソンには相変わらず外資系企業が人気だ。
それは外資に比べ日本企業の成果主義が羊頭狗肉だからである。
「バリューを出せ」「パフォーマンスが足りない」と従業員を焚きつけても褒賞が少ない。成果主義を標榜するのであれば企業はそれなりの覚悟を要するだろう。
それは従業員にとっては成果を挙げれば当然その対価は100%貰えると思うからだ。
だが、先述したように、企業活動というのは労働者が損をする仕組みになっているので、労働者が希望するほどの褒賞は得られない。
だから賢い企業はなるべくカネでは量れない利益を従業員に還元する。
それは、企業を通しての社会貢献だったり、スキルや社風だったりする。
カネを払っているからその対価をよこせというのは企業間取引では有効なビジネスタームだが、企業と労働者間では空語になる。
厳密に言えば、労働者には”給料泥棒”か”搾取されている人”の二種類しか居ない。
お互いに得をしているというのは幻想なのである。
搾取されている労働者はその会社から賃金には換えられない何かをメリットに感じているはずである。だから定着する。
これを金銭関係だけの問題に矮小化すると労働者は企業に永くは居着かない。
つまり利益追求だけが目的の企業の社員はいつも搾取されていると思うようになるからである。
2017年3月27日