合理的でない社会


社会が存在することに合理的な理由があるが、それは人間個人のライフサイクルよりも遙かに長いスパンにおいて意味が成り立つものであって、個人の利益の追求のためのミクロ的な視野で見ると社会の存在理由が理解出来ない。
合理的に考えると社会は不要である。社会はそもそも弱者ベースに作られているのであって、強者のための社会というのは語義的にも間違っている。弱肉強食の世界に民主社会は存在しない。分断された個が各々に孤立しているだけである。
社会とは共同体の存続を目指すことにより人類の継続が主目的なのである。
だから刹那的に生きるということは、社会の目的とは相反するし、様々な問題を引き起こす。合理的に生きるというのは社会が目的としているものとは対立するのである。
短観的には社会は合理的には出来ていない。
共同体を存続させるには、個人ではいろいろな不利益を被る。我慢する事も多い。
社会で生きるというのは自由を制約されるということだ。
社会で自由に生きるというのは、単に社会のフリーライダーというだけである。
言ったのはカントだったと記憶しているが、利己的に生きる人か否かを判定するものに「あなたのような人が社会に増えると世の中は良くなるのか?」という問いである。
あなたのような人が社会のマジョリティになるとあなたにとって都合が良いのかということである。
テロリストも過激派もそのような自問をしないので効果が無いのだが、公共心というプラットフォームが崩壊しているので、誰もが自分勝手に振る舞うことが出来るのである。
振り返ってみると合理的とか、成果主義というキーワードは社会を蝕むNGワードだったのである。
合理的な考えは重要である。でも合理的に振る舞うことが、自分の利益を誘導する便利な方便となったことが社会の衰退の始まりだったのだ。
合理的という言葉を明確に定義し直す必要がある。
合理的であるということは、必ずしも自分の利益とは一致しないこと。
個人の利益の外に合理性が存在するという事実。
ミクロ的に言えば個人の人生は非合理的だ。
生きていること自体効率が良くない。
だからこそ人生の非合理性を受け入れ、非合理的な生き方にもっと寛容になるしかない。
”合理的”という言葉になにか胡散臭さを感じるのは、そもそも我々の人生が非合理性に満ちていることを直感的に知っているからである。
人生は非合理で矛盾だらけだ。だからこそ我々はその非合理性を愛するのである。

 

2017年7月3日

 

 

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