天気の話しは知的なはなし

 

人間という生き物は未来の話をするのが好きだ。
言い換えれば自分たちの知らないものを推測するのが知的な会話なのである。
人が天気の話を好むのは、未来を予測する話なので相手の関心も惹ける。
天気の話は知的な話なのだ。
自分たちの知らない事を予測するのは知的好奇心を刺激するので受けが良いのだが、その延長にあるのが世界経済の話や政治の話である。現状を分析し未来を予測する。それが知的なのである。
ところが、最近はどんな評論家でも正確な未来が読めないので百家争鳴の状態である。
だから未来の話にいささか勢いが無い。
誰もあまり未来の話に特別な関心を持たない。
その代わり語られなかった”日本の歴史の真実”とか過去の新解釈に関心が移ったりしている。だが、これも知らない事への関心であって知的ではあるのである。
でも、最近は正確な未来が予測できない事を良いことに、未来を予測することを自分の願望を訴える事に力点が移動してきている。
産経新聞を見ていると判るのだが、彼らの記事は一見事実を報道しているように見えるが、その目的は事実の報道よりも自分たちの価値観や主張を国民に浸透させることにある。
未来の予測ではなく自らの手で未来を変えていくことに産経は気づいているのである。
新聞は西欧に倣って事実を報道する媒体から”主義主張”を伝える媒体になった。
それが世間にも浸透し、多くの人が未来を予測するのではなく、自分の願望を口にし未来を自分の好みに合わせるというスタイルになった。でもこれがずいぶん知的ではない。 因果関係を分析して演繹なり帰納なりの方法で未来を予測するのは知的な作業だが、自分の願望をひたすら述べてそのようにし向けるというのは幼児が用いるロジックと同じではないのだろうか。
その訴え方は国内では通用するとは思うけれど、いざ諸外国との議論になった時、たぶん通用しないと思う。日本国民の志向が国内向きに向かっているぶんには問題は顕在化はしないとは思うが、その国内で共有される日本人の指向を外の国ではどのように見られているのかは気になる。日本の鎖国は幕府が外形的に日本人に課したというが、本当は日本人のメンタリティが鎖国を選んだのだと思う。江戸300年の泰平で鎖国の心の檻が骨髄に沁みて内面化されてしまったのかも知れない。
思えば、テレビのコマーシャルもタダで番組を見る代償として企業の主義主張を刷り込んできた。
我に返れば至る所でマスコミや企業のメッセージを刷り込まれている。
これは、もう20年以上も前に岡田斗司夫氏が予想していた洗脳社会と言えるのかもしれない。 これは卓見であった。

 


 

2017年8月27日

 

 

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