働かざる者は食うべからず、というイデオロギー
産業革命の時代に”ラッダイト運動”という産業テロがあった。
機械に仕事を奪われると恐れた労働者が会社の機械を打ち壊しはじめたのだ。
短絡的な行動だったが、その直観は正しい。世界史の教科書ではラッダイト運動を愚者の蒙昧な行動としての文脈で捉えられているけれど、機械が労働者から仕事を奪ったのは本当のことだ。機械を破壊したところで工業化の波を止めることは出来ないのではあるが、機械が労働者の仕事を奪う事は早くから認識されていた象徴的な事件だった。
近代ヨーロッパにカルバンという宗教学者がいたのだけれど彼は金貸し業も神に認められる仕事であると説いた。それに主に金融業を生業としていたユダヤ人が飛び付いた。
だが、金融業は仕事では無い。”マネーゲーム”である。本来仕事とは農業・漁業・酪農など人間が生きるために必要な物を生産するものだ。
本来、富んでも良い人達はこのような人達である。マネーゲームで利殖を増やしている人が裕福になる社会はねじれているのである。
福祉関係の人達は異口同音に言う「働かないでお金を貰えるなんてありえない」。だが、障害者は自分を養うだけのお金を稼げていない。大部分が国庫の原資を切り崩してそこから生活の資金を支援されている。
福祉に頼る人は現実問題として自分の生活費を稼げていないのである。でも、市場経済から看る分には稼げていないのは個人の責任に帰するのだが、実際は違うように思う。
現代社会は仕事がどんどん自動化されており、多くの人の仕事がロボットや人工知能に取って代わられている。そこで、機械では代替出来ない仕事を人間がやるわけなのだが、それが益々高度専門化されて普通の人間では対処出来ないようになってしまった。コンピュータソフトウェアの世界では現代は機械学習等の人工知能の知見にニーズが集中してきており、これは高等数学の素養が無いと追いつかない。現在人間が必要とされる仕事には大学の修士課程かそれ以上の学問を修めているくらいでないと対応出来なくなってきている。障害者や一般人がお金を稼げないのは個人の能力の問題ではなく、社会に働く場所が減少しているか、仕事が高度化しているからだ。
人間の能力には限界がある。だが、科学技術の進歩はそれを追い越しつつある。自動化に依り浮いた人件費は資本家と株主が享受する。だが、それを仕事を喪った失業者に還元すれば帳尻が合う。私がベーシックインカムに賛同する理由の一つがそれである。
具体的なデータは提示出来ないが、世界の富は半世紀前に比べてじゅうぶん増大しておりその資産は一部の富裕層に集中している。それを公正な富の分配を実践し、働けない人には生きていくのに困らないお金を基礎給付して、もっとお金が欲しい人には働いてもらう。働きたくない人は死なない程度のお金を貰って毎日散歩したり歌ったりダンスでもしていれば良い。
”働かざる者は食うべからず”という考えはイデオロギーであって、現実は働かなくても食べていけるインフラは出来上がっている。要は意識の問題なのだ。
大体、”働かざる者は食うべからず”というスローガンには感情的なものが混交していて、つまりは「働かずに遊んでいる人間がカネを貰ってのうのうと暮らしているのが許せない」という義憤のようなものだ。ちなみに旧約聖書では”労働”は神罰であって、奨励されているものではない。もっとネガティブなものだ。だから西洋人の労働観はもっとドライである。
働かない者がのうのうと暮らしていくのが許せないのであれば、一日中足を棒にしてティッシュを配っている人が最も稼いで良い人達である。工事現場の誘導員も然り。だが、現実はそういう人達への同情は少ない。マネーゲームで稼ぐ人達を羨望のまなざしで見つめている。その筋目の通らない理屈に誰も気が付かない。
誰もが楽をして暮らしたいのに一方で”働かざる者は食うべからず”と唱えている。偽善ではないだろうか。
ベーシックインカムに反対する人に限ってロト6を買っていたりするんじゃないのだろうか。総括すると労働に見合った賃金が設定されていないのが問題なのだ。
賃金の決め方は”幾ら利益が出たのか?”である。
それだから、資金を運用して得た莫大な利益を報酬として受け取る人が出てくるし、通行人が足を止めて聞き入るような歌を唄うストリートミュージシャンのギターケースに入るコインが僅かだったりするのだ。
経済を市場に任せるというのは泥棒に財布を預けるようなものだと思う。
2017年10月28日