総ツッコミ社会
ボケる人間が居なくなった、というのは語弊があるのだが、社会で3枚目とか2枚目半のキャラクターの役目を負う人が少なくなったと思う。
漫才で言うところのボケ役が居ないのである。誰もがツッコミ役になりたいと思っている。ニュースにつっこみ、ヤフコメでつっこみ、会社や学校で誰かにツッコむ。ボケ役はやりたがらない。たしかに会社でボケるのは危険である。仕事でボケれば、かなりの確率でクビになる。会社はクレバーな人材が欲しいのだ。足手まといは要らない。
だからなのか様々な局面でツッコミをする人が増えた。
合コン、サークル、etc…。だが、実はツッコミは簡単な仕事だ。馬鹿でも出来る。ボケ役はそうはいかない。ネタを考え、パンチラインを探っていく作業は大半はボケ役がしている。
横山やすしもボケ役だったがネタを考えていたのは彼だ。”ボケ”とは相当クリエイティブな作業なのである。
ツッコミ役の定義をもう少し拡げればマスコミだってツッコミである。
政治腐敗や汚職というボケに鋭くツッコミを入れるのがマスコミだ。
そして大衆はそのツッコミを内面化してしまっている。”ツッコミこそがクールだ”と。だが、先述したようにツッコミは知的リソースをあまり要しないイージーなパートだ。
女性はボケる男にツッコミを入れて楽しむ。それをオネエ化した男が真似る。ツッコミを入れる方が1対1の関係で有利だし、ボケをかまして滑るリスクも無い。ボケは損を引き受ける。無私の心が必要だ。
つまり身銭を切るような人が減ったのだ。
カネが掛かるものはもちろん嫌だし、タダのものでも少しでも労力が少なく得られるように願う。
やはりこれも効率や能率が優先される社会だからこそ有形無形の損を異常に忌避するのかもしれない。
この社会は身銭を切るような人達が居るからこそ成立している。
だが、それを成果主義という費用対効果を逐一査定するような社会になったため、損を引き受ける人が居なくなった。
それはツッコむ人間がボケに対してボケの献身を容赦なく搾取したせいもあると思う。
愛情をもってしてボケにツッコまなかったからボケ役が減少した。
ツッコミは知的リソースが少ない。だからボケに寛容な社会でなければブレイクスルーが起きない。
2017年11月12日