イントゥ・ザ・ウッズ 評論

宣伝では“Happily ever after”のその後の話ということでパブリシティ活動を行ってはいるが、この作品はおとぎ話を語っているようで、しっかり現代アメリカの神話をブレンドしている。 この作品のテーマである“願いは実現する”というのはアメリカ教(揶揄的な意味)での聖典、ナポレオン・ヒルの『思考は現実化する』で述べられていることと共通する部分が多々ある。 心に思い描くものは全て神様がお見通しであるという信憑が転じて願いは叶うという信念につながっている。 個人が何を考えているのか西洋の神様はお見通しなので、西洋人は思考そのものを他者から精査されると信じられている。ゴーストバスターズ(1984年)でダン・エイクロイドが演じる幽霊退治屋が頭でイメージした物がそのまま破壊者となって街を襲撃するというシーンは西洋人の考え方を具象化したもの。 尼僧が背徳的な想像をするとかぶりを振って十字を切るシーンが過去の作品で散見されるが、まさにそれが、考えているものは、神様がお見通しであるということとそれが現実化の始まりであることを端的に示している。 願えばもうそれは、半分は実現したようなものという西洋人のポジティブな発想をミュージカルで繰り返し表明しているのであって、些か日本人には食傷気味ではあるのだが、アンドリュー・カーネギーから連なる自己肯定の思想の流れを汲む作品と思えば面白いのかもしれない。こうやって、東洋人は知らないうちに西洋人のイデオロギーに感化(洗脳?)されているのである。 願いはいつか叶うけれどそれは願ったそのものが叶うというものでもない。いつも願いは想像したものと違うカタチで現れる。 これもナポレオン・ヒルが自著でそう述べている。 Oasisの『Whatever』という曲にもあるように、”自分が願うものに何にでもなれる”という強烈な自己肯定の考え方が西洋人の心の中に横溢している。 願いは叶うというのは西欧人が強迫観念のように信じる妄執であり本作はそれを反芻して強化している。 ミュージカルと映画では文法が違う。ミュージカルでは歌っている時はストーリーの進行が止まるので、規定の尺で間に合わせるためにその後のストーリーは端折られる。よって唐突感が当然強くなる。しかも、今作はいくつもの童話の主人公が登場する物語だからどのエピソードも要約されていて、周知の部分は割愛されている。場面展開が目まぐるしく2時間を超える長尺にも拘らず、ダイジェスト版を観ているような感じがした。 ミュージカルでストーリーを求めてはダメなんだ、歌を楽しまなくちゃ、と解った作品である。 ジョージ・マイケル似の王子が胸をはだけて「agony~」と唄うシーンは思わず笑ってしまった。製作者の意図しない計算外の笑いがこのミュージカルにはあって、不謹慎ではあるのだが、つい笑ってしまう。オフビートな笑いもこの作品の魅力だ。みうらじゅん的に面白い一面がこの作品にはある。 シンデレラはゲルマン系には見えないし、映画の端々に住民としてアフリカ系が登場するのだが、ポリティカルコレクトというのかそういう配慮は、ディズニーは特に徹底している。元々西ヨーロッパが舞台なのだからそこまで配慮しなくてはならないのかと訝ってしまうのだが、世界をマーケットとして視野に入れているディズニー映画にとってそれは必然のことなのかもしれない。 本作で多大なる印象を残すメリル・ストリープの存在感は圧倒的であった。アカデミー賞にノミネートされるのも無理からぬところだ。たぶん獲りすぎのきらいがある彼女だが、アカデミー協会会員も無視出来なかったのだろう。

 

★★★

 

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