彼が本気で編むときは、 評論

 

 

キリスト教圏では同性愛は認めにくいはずなのに、なぜか今の日本の方が同性愛に不寛容だ。古来日本は同性愛に寛容な国だった。だが現代は違う。不思議な現象である。

 

我々は偏見の中で生きている。これは控えめに言って肯定的な意味だ。
偏見が無いと頭の中でどんな事象についても論理的に挙証していかなくてはならない。「彼は強いので男らしい」「彼女はたおやかだ」偏見があるから頭を使わずに済む。全ての事象に事実関係を推論すれば気が狂ってしまうだろう。
だが、そんな思い込みが足元から崩れようとしている。
バイアスの掛かった目で見る人生は一見楽だが、現実はそんなに単純でも無い。
セクシャルマイノリティが徐々にホモソーシャルな社会を浸潤して多様性のある世界が再定義されようとしている。

 

優しさとは本来は目に見えないものだ。見えないのに存在する。女性的な優しさが男性の器に入っていたとしたら、それは一元的なものの見方にNOを突きつけることになる。


“優しさに性別は関係ない”


セクシャルマイノリティの存在は異性愛に慣れてきっている私たちからすれば脅威だ。自分の偏見・思い込みを真っ向から否定されるのである。
現代の日本において“寛容性”という言葉は少々居心地が悪い。
「あれは不謹慎だ」と炎上し、または、一部の人間の特権に異常に執着する。
どうしても他人を赦すことが出来ない。
不寛容な社会は住みづらい。そして風通しが悪い。
今一度凝り固まった偏見を解きほぐし、マイノリティの視線に立つ必要がある。
結局、人間らしく生きるということはマイノリティの存在を認めることから始まる。言い換えれば、我々のヒューマニティを担保するのは、マイノリティの存在である。
この作品では社会ではまだ少数派の人たちに光を当てることで、私たちの人間性の回復を促しているのである。


マイノリティは許しを求めていない。我々を赦すのがマイノリティだからだ。
そのことに気づかないマジョリティは多い。その点で同性愛にまるで理解のないカイの母親(小池栄子)はある意味マジョリティの一面的な見方を代弁している。
また、トモ(柿原りんか)の同級生であるカイ(込江海翔)の苦悩などマイノリティの深刻な葛藤もよく描かれている。
トモの母親であり、親よりも女を優先するヒロミ(ミムラ)の存在は「母性」になりきれなかった「女性」の一つの“顔”であるし、様々な人の感情が交錯して想いを編み上げていく手法はダイナミックな台詞に支えられて実現している。
荻上監督はロダンが振るう彫刻刀のように、素材から真実を浮き彫りにしていく。
この映画は癒し系映画で功名を成した監督とは一味違う優しく、そして重い作品になっている。

 

★★★★★

 

2017年2月25日(土)、新宿ピカデリー、丸の内ピカデリーほか全国ロードショー

 

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