怪盗グルーのミニオン大脱走 評論
東宝東和
(C) UNIVERSAL STUDIOS
悪党稼業から一転、反悪党同盟へと転職したグルーだが、足を洗おうにもかつてのしがらみが今でも続きなかなか決別出来ないというお話はよくあるシチューエーションなのだが、このグルーの強敵となる80年代の幻想に今でも取り憑かれるバルタザール・ブラットという悪党の造形が秀逸なのだ。
大人になりきれない男、バルタザールは80年代の幻想に取り憑かれ、80年代から抜け出ない男の滑稽さを描いている反面、自分の夢に固執してついにそれを実現したという面も併せ持っている。バルタザールは子供のままのピーターパン症候群のおっさんだが、見方を変えれば子供の夢をいつまでも持ち続けた邪悪で純粋な少年でもあるのだ。
グルーは血のつながらない子供を引き取って面倒を見る大人の模範のような男だが、このネガであるバルタザールとの対比が作品の造形をいっそう際立せるのである。
イルミネーションはバルタザールを単なる悪人とは描いていない。
過去に囚われる愚かな男なのかもしれないが、少年の夢をいつまでも持ち続ける見上げた男でもあるのだ。
イルミネーションはグルーとバルタザールの対決を一元的な善悪の対立として描いていない。どちらも魅力的な存在として描いている。グルーとバルタザールの一騎打ちはダンスバトルという対決で、選曲がPhil CollinsのSussudioであったりして遊び心は満点である。
ミニオンのキャラクタ造形はグレムリンが参考になっていそうで、騒々しいが情に篤い面もある。グルーとの回想シーンはなかなかしんみりとしてしまう。
子供には多くの選択肢があること、開かれた未来を想像させるストーリーに作品の懐の深さを感じた。
只、個人的な感想なのだが、イルミネーションが描く世界は一見、傍若無人の人間を描いているようでもどこか憎めない。夢を追い続ける人であったり、悪党なのだが他者の痛みに気づくような人間であったりと公共的な心をどこか持っていたりするのだ。
だが、現実は恐ろしいほど利己的な人間がいる。中世ならば悪魔とかに分類される人たちだ。
たぶんイルミネーションからすれば、そういう人間はともかく、最低限の人間の資格を備えて自由な大人になれ、ということなのだろう。
哀しいことにこういう作品の訴求力が弱まってきているのは皮肉なことに人間の考え方の多様性に因る面が多いように思う。
イルミネーションの作品は正しい大人を涵養する啓蒙的な要素があって、娯楽であると同時に人間性を喚起する作品でもある。イルミネーションの作品に限ったことではないが、大概のコンテンツには多くの人が共感するような要素、つまり公共心を呼びかけるメッセージが含まれているのである。だから映画を観るという行動自体が社会的な行動と言っても差し支えない。そういう意味合いからも劇場で映画を観るという行為に合理性はないが社会的な意味がある。我々の良心の中心に居るのが映画であってほしいものだ。
一方、人類の価値観が多様化するにつれ、テロ国家や利己的に振る舞う人たちなど、公共心というものを忘れてしまった人たちが社会のメインストリームになってしまった。オルタナクティブ・ファクトを標榜するトランプはその顕著な例のように思う。
そういう社会が台頭する時代に小さくともしっかりとした声で異を唱えるのがイルミネーションの作品なのだ。
多くの現代人が置いていった忘れ物を届けるのがイルミネーションの作品だが、現代人は自分が置いていったものを忘れ物であると認識するのだろうか。邪魔だから不法投棄してきたのではないのだろうか。
社会というものが公共心無くして成立し得ない事実を忘れかけている現代社会においてイルミネーションの作品は人のあるべき道を照らす小さな灯台というべきだろう。
★★★★★
7月21日(金) 公開