gifted/ギフテッド 評論
20世紀FOX映画
(C)2017 Twentieth Century Fox
この作品はポリティカル・コレクトな映画である。
主人公フランク(クリス・エヴァンス)のガールフレンドはヒスパニック系で友人はアフリカ系。中盤の法廷闘争のシーンで彼を弁護する弁護士もアフリカ系。
物語の後半にちょっとだけ登場する黒板に数式を書き間違える学生はアジア系だ。
アファーマティブ・アクションを積極的に採用しているアメリカだから別に不思議ではない。
ここまでは誰が見ても判る。見たまんまだから。しかし、もうひとりアメリカ社会の成員である人々もクレジットされている。それはメアリー(マッケナ・グレイス)が飼う隻眼の猫フレッドの存在だ。フレッドは障害者の暗示なのである。映画で障害者を登場させると主人公になるか、あるいは主役を喰うような存在になってしまう。過去には『ギルバート・グレイプ』で小児麻痺を演じたレオナルド・ディカプリオ、『17歳のカルテ』ので人格障害者の役だったアンジェリーナ・ジョリーと障害者の登用は映画製作ではインパクトが強く作品のバランスが偏ることになる。そこで猫のフレッドが障害者の属性を帯びて作品のバランスを補正しているのだ。
次に、この作品の核となるメッセージに”幸せを感じるのに賢さはあまり関係がない”というものである。人類に貢献し名声を得ても個人の幸福の増減に影響するのかはその人次第で、知性の高さがむしろ重みとなってしまうこともあるだろう。メアリーは数学の天才だが、一緒に暮らす叔父のフランクは彼女に普通の人の人生を与えようと気を遣う。何故、フランクがそのことに拘るのかは後半のメアリーの親権をめぐる法廷闘争で明かにされていくのだが、メアリーの母親の遺志がそう望んだということは言外からも察しがつく。
メアリーの祖母イブリン(リンゼイ・ダンカン)は10億人に一人とされるメアリーの才能を人類に捧げよと迫るが、イブリンの態度が尊大であってもこれは一部のエリートが人類を牽引しているという事実を代弁している。一方でフランクは姉への後悔からメアリーに普通の人生を歩んで欲しいと願う。
その対置が実にシンボリックで現代社会における知性主義的な風潮に一石を投じている(とはいっても反知性主義が良いと言っているわけではもちろん無い)。イブリンとフランクの対立は”公共”と”私人”の対立にも置き換えられ、どちらに軍配が上がるのかは明かさないが、我々はその中間を右往左往しているのだ。人類への貢献は有ってよいが、個人が犠牲になることはダメ、苦しいがその対立がドラマを深化させ、意味のある物語が紡がれる。
さまざまな属性を持つ人とさらに賢人愚者にまで言及されて生き歳生きる全ての人達が泣き笑い、自分の人生を歩んでゆく。
この作品では幸せを享受するのに賢さは必要条件ではない、十分条件でじゅうぶんなのだと教えてくれる。
★★★★★
11月23日(木・祝)よりTOHOシネマズ シャンテ ほか全国ロードショー