マダム・フローレンス! 夢見るふたり 評論
“美しい”という言葉にはどこか排他的な響きがある。
美であるもの以外を許さぬ峻厳さが感じられるし、客観性を担保した審美眼から外れたものは救済措置を期待することができないという恐怖がある。
だが、善は違う。愚かさや誤りを許容する寛容性がある。
マダム・フローレンス(メリル・ストリープ)の歌声は美というよりも善良さを感じさせる声だった。
調子っぱずれな歌であっても、成熟した観客は彼女の歌声に善性を感じ取ったのである。美を包摂する高次の善に心を打たれたのだった。
フローレンスは才能が無くても音楽を愛し続けるその心は、たぶん多くの人がそうなのであろう、才能に恵まれなかった人の共感を呼び起こしたのだ。
もちろん、彼女の才能の無さに罵声を浴びせたくなった人も多かったにちがいない。ニューヨークタイムスの記者もその一人だった。芸術に同情はいらない。
美しいかそうでないかの二者択一である。彼もまた芸術の忠実な下僕であった。
彼女が起こした奇跡は彼女だけで成し得たものでは無かった。マダム・フローレンスを支える彼女の夫と、彼女に声援を送った観客が居てこそ起こせた奇跡だった。彼女のリサイタルを聴きに集まった観客は、善が美を包含するという事実を知っていたという点で成熟(つまり大人の対応が出来た人)していたと言える。
マダム・フローレンスの夫役を演じたヒュー・グラントの演技が光っていた。愛人を囲いながらもフローレンスを思慕し影になり彼女のために奔走する複雑な人間性が作品に一層のリアリティを与えた。この作品でオスカーを獲れるとは断言出来ないが結構善戦するのではないだろうか。良い演技だった。
カーネギーホールのアーカイブで彼女の歌が視聴数のトップになっていたにせよ、嘲弄が目的で聴く人もいるのだろう。だが、多くの人が彼女の歌声に人間のおかしみ、つまりヒューマニティを感じているのではないのだろうか。
西欧では芸術に対して容赦の無い批評性を確保しつつも、その一方で『エド・ウッド』(1995年日本公開)のような、才能から見放されていた人々にも温かい声援を送るカウンターカルチャーがある。そこで描かれるのは、美の対象にはならなくても、芸術へのひたむきな愛やそれに殉じる崇高な精神である。
おそらく多くの人が才能に恵まれた人間を賞賛する一方で、ミューズの寵愛を得られなかった人間の悲哀を我が身のものとして感じているのだと思う。
ミューズには愛されなかったマダム・フローレンスではあったが、多くの人の心を掴んだ事実は覆しようがない。
本作は、人生において美だけを追求しては、人は生きてはいけない滑稽でも愛おしい人生の醍醐味をつまびらかにした快作である。
追記:美と善についての考察はエマニュエル・カントの著作でも述べられているので、興味のある方は一読されることをお勧めします。
★★★★★
2016年12月1日(木)全国ロードショー