ジャングル・ブック 評論
登場する動物どれもがCGなのだが、彼らの動きや質感、言葉を喋る時の表情が実に自然で違和感がない。CGに吹き込まれる生命の躍動感、生命への賛辞に溢れる作品である。モーグリ(ニール・セディ)は賢く優しいので狼の群れの中にも自然と馴染んでいる。
ジャングルの厳しい掟の中で生きるモーグリだが、狼の群れに手厚く保護され幸せに暮らしている。ジャングルの中でも動物の仲間が人間の子供と暮らしていく寓話で、家族向けで心温まる作品である。
しかしながら、古い小説や映画には時折内容が矛盾しているものがある。
原作は古くからあるキプリングの小説なのだが、瑕瑾があるとすれば、この作品にもちょっと不可思議な箇所があって、動物たちの間では「赤い花」と呼ばれている火を恐れ、なかにはその力を手にいれようとする者もいるのだが、人間であるモーグリにその秘密を聞き出そうとするのだけれど、モーグリは火が何かは知らないと告白する。だがラストでモーグリはその火をコントロールしてみせるのだ。火の本質を知っていないと出来ない事だったので違和感があったのだが、モーグリは人間に教わらなくても道具の使い方を自力で考案できる相当の”地頭力”を持つ子供だから恐らく火の扱い方も自力で見つけ出したのかもしれない。
好意的に見ればそれが伏線だったと言えるのだろう。
100年くらい前にインドで狼に育てられたと言われるアマラとカマラという姉妹がいたが彼女らは四つ這いになり言葉は話せなかった。
さらに時を遡ることローマ帝国建国当時は狼に育てられたロムルスとレムスという兄弟が建国の祖という言い伝えがある。
どうも人間が狼に育てられるという話は寓意に満ちていて、狼の社会性と人間界のそれとが相似しているからなのかもしれない。
当時、キプリングが意図していたのかは知らないが、人間の知性と野生が共存する理想郷がここには存在していた。もちろんおとぎ話ではあるのだが、我々が生きる人間界と自然が共存するひとつのモデルをキプリングは寓話の中に込めたのである。多くの人は野生と人間との共存なんてと一笑に伏すのかもしれない。だが、このような非現実的な寓話を通してでないと人間は異質なものに対する共感は生まれないのである。すべからく寓話というものは物事の核心を衝いているケースが多い。
我々はこういった寓話により自然への親しみや理解を深めていくのである。隣人への共感、憐憫などをこういった作品から学んでいく。それはいにしえより物語として語り継がれ共同体の中で共有されていく。そして我々は学んでいくのである。他者との共存を。または他者との違いを認め合うことを。
ジャングル・ブックの根底にあるものはお互いが違う存在であることを認め共存していく寛容さについて描かれている。
このジャングルの共同体を人間界に置き換えて見たらまた違う風景が見えるのではないだろうか。これはジャングルに化体した人間界のことであって、人種性別を超えてさまざまな人間の全てが共存していくためのマントラなのである。
ウォルト・ディズニーがこの小説の映画化を決断したのも、キプリングが描くジャングル・ブックの種の共生というテーマに共感したからのように思う。
★★★★
2016年8月11日(木・祝)ロードショー