ジョン・ウィック:チャプター2 評論

前作では愛犬を殺された復讐でロシアン・マフィアを壊滅させたジョン・ウィック(キアヌ・リーブス)だが、今回の怒りの発端は妻との想い出深い邸宅を破壊された復讐でイタリアン・マフィアに孤独な戦いを挑んでいる。一昔であれば、復讐のきっかけとなるのは愛する家族を殺されて耐えに耐えかねて最後の手段として復讐に及び、人の生命の代償として敵に命をもって罪を償わせてきたのだが、最近になると怒りの導火線がペットの命だったり、壊された家の仕返しだったりする。
昔の映画の暗黙の約束だった命対命のルールが成立しなくなってきている。ジョン・ウィックシリーズで語られるものは、”個人が愛するものは他人の命よりも重い”というショッキングな事実である。この生命の価値の非対称性にカタルシスを感じる人が多くなったということだ。映画だし、爽快感を優先するのならばこういう映画も有りだとは思う。只、最近はちょっと怖くなってきたなという懸念がもたげてくる。
一方で人間以外の生命や想い出もまた、時に譲りがたい重要なものであるという考えもまた同時に共感できるのだ。この作品の主旨の見方として”自分の主義主張が他者よりも優先される”というものと”我々にとってなにものにも代えがたいものが厳然として存在する”という二つの見方である。
これを前者として解釈すると現代の日本のように保育所を建てようとすると近隣の住民が反対をしたり、瓦礫の処理施設を東北県外に建設しようとすると地域住民が反対するなどの利己的な運動に結びついていくことになるのだけれど、筆者の見方としては、これは汎神論の復活のように思う。ある意味ヒューマニズムの否定である。人間第一主義ではないのだ。敵の人間性は家一軒や犬の命の前に否定されるのである。ジョン・ウィックでは敵の人間性についてはさほど触れない。あくまで制裁が加えられるべき人間としてしか描かれていない。柔術を用いた格闘術や多彩な重火器が登場するアクションシーンが目立つ分ストーリーに厚みが出ないのはこの原則を貫いたためのトレードオフの結果である。ストーリーを補完するのは癖のある敵のキャラクタである。華麗な武術でジョン・ウィックを追い詰めるボディーガードやイタリアン・マフィアのボス、サンティーノ・ダントニオ(リッカルド・スカルマチョ)は強烈な個性を発散しているが、そのほかの殺し屋はウィックに殺される単なる記号としてしか機能していない。只、ウィックの華麗なる武術の受け身としての役割はきっちり果たしている。
個性的な敵が要所要所で登場し、作品を盛り上げている。
敵の個性とアクションが物語性を浸食しているため、亡き妻とのメロウなエピソードが霞んでしまっている。それはやはりジョン・ウィックがアクションに重きを置いた作品だからなのかもしれない。

 

★★★★

 

2017年7月7日(金)TOHOシネマズ みゆき座ほか全国公開

 

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